
2026.02.02
雪国の冬が好きだと言うと、たいてい驚かれる。
「え、雪って大変じゃない?」
会話の入口に置かれるのは、だいたいその一言だったりする。
もちろん大変だ。雪かきもあるし、路面は凍るし、朝は容赦なく冷える。車の雪下ろしをしていると、今日という日が「まず作業から始まる日」だと宣告される。冬将軍は、こちらの都合で弱まったりしない。
それでも私は、青森の冬が好きだ。
好きだと言い切りたいのは、最近、雪や寒さが「マイナスの象徴」みたいに語られるのを聞いて、少しだけ悲しくなったからだと思う。冬を「怖いもの」として遠ざける。その気持ちは理解できるのに、冬の良さがまるごと消されるみたいで、胸のどこかがしゅんとする。
私は青森市出身だ。雪は昔から見慣れている。
それなのに、三戸町で暮らすようになってから、冬への好意がむしろ濃くなった。見慣れているはずのものが、土地を変えると別の表情を見せる。冬の良さは、記憶の中の雪景色ではなく、いまの生活の中で更新され続けている。
東京で過ごした冬も好きだった。乾いた空気、コートの襟を立てたときのきりっとした気分、夕暮れの光の細さ。都会の冬は、シャープで整っている。
ただ、青森の冬はそれとは違う。いい意味で違う。寒さの種類が違う。空気の触り方が違う。
雪が積もると、町の音が少し吸い込まれる。遠くの車の気配まで丸くなる。静けさが増えて、景色がすっと落ち着く。音が減るぶん、生活の輪郭が浮き出てくる。人の足音、ドアの開閉、ストーブの微かな音。冬は、耳がひらく季節だと思う。
そして、朝がいちばん象徴的だ。
朝、カーテンを開けて一面まっ白だと、テンションが上がる。外で冬将軍が待っているのに、我ながら単純だと思う。三戸生活3年目。
白い朝には、「上書き」の力がある。
昨日までの道路の色、空の重さ、視界のざわつき。心のもやもや。そういうものが一度きれいに塗り替えられて、世界が少しだけ無口になる。白は派手ではないのに、いちばん強い。景色を変えて、気持ちまで変えてしまう気がする。
「よし、リセット入ったな」
勝手にそう思う。冬の白さは、現実逃避ではなく整理整頓に近い。散らかったものが、いったん見えなくなる。見えなくなるから、また整えられる。雪は面倒を連れてくるが、同時に余白も連れてくる。

冬の関根ふれあい公園(三戸町)
もちろん、現実は容赦ない。何を着込むか、路面はどうか、今日のコートに合う帽子や手袋はどこだ。外に出た瞬間、ほっぺたが「寒っ!」と言う。
そして思い出す。まだ序の口だと。ここから三戸の冷え込みは本気を出してくる。
それでも、冬の面白さはそこから始まる。厳しさがあると、温かさが「ちゃんと温かい」ものになる。冬は、当たり前を当たり前でなくしてくれる。だから感謝が生まれやすい。

三戸高校から見える雪景色
私の冬のごほうびは、暖かい部屋で食べるアイスだ。冬にアイス?と言われても譲れない。外が冷えているほど、室内のぬくもりが際立つせいか、妙にうまい。寒さがあるから甘さが際立つ。つらさがあるから、ごほうびがちゃんとごほうびになる。冬はメリハリの作り方がうまい季節だと思う。
そして、夜が早いのも好きだ。
夏みたいに真っ赤な夕日がだらだら続くわけではない。「あ、そろそろかな」と思った次の瞬間に、すっと夜が来る。グラデーションが少なくて、切り替えが早い。その潔さが冬らしくて印象に残る。
気づけば、窓の灯りがぽつぽつ増える。ストーブの匂いが町に混ざる。外が厳しいほど、家の中の「生きている感じ」が濃くなる。冬は、灯りをあたたかいものにする。早く夜が来る分、家に戻る理由もはっきりして、静かな時間が手元に残る。
雪は手間も危険も連れてくる。これは間違いない。でも同時に、暮らしの知恵も連れてくる。段取り、工夫、慎重さ。急がないことが安全につながり、丁寧さが生活の標準になる。
そして何より、人のやさしさが見えやすくなる。雪国の助け合いは、大げさな美談ではなく、日常の技術だと思う。困ることが前提にあるから、支えることも前提になる。
だから私は、雪や寒さの話が「大変」で終わると、やっぱり少し悲しい。大変だという事実を否定したいわけではない。むしろ認めた上で、その先にあるものも見てほしいのだと思う。
まっ白な朝に上がるテンションは、
「今日もやっていくか」のスイッチなのかもしれない。
雪国の冬が好きだと言えるのは、寒さに強いからではない。寒さの中に、温かさの輪郭が浮かぶ瞬間を知っているからだ。青森県の冬には、そういう瞬間が、ちゃんとあるのだ。

むらた しゅうこ
「挑戦する10代」と「挑戦する大人」が出会う瞬間を、三戸から増やしていきます。